野本先生追悼文

〜 あのごつい手で復元菱垣廻船の帆走を実現された野本先生へ 〜

1998年7月31日、野本先生のお世話で、新西宮ヨットハーバーで第14回セーリングヨット研究会を開催させて頂いた。野本先生からは、特別講演として「私の帆走哲学と<春一番U>」と題して、春一番を設計した経緯や春一番の航海で出会った人々との思い出などをお話いただいた。また同ハーバーが春一番Uのホームポートでもあるので、まだ春一番Uを見た事がないという会員のために桟橋で見学会を催して頂くとともに、実際にシングルハンドの帆走による離着桟をご披露頂いた。微風の中ではあったがジブを上げながらもやいを解いて離桟し、その後フルセールにしてゆったりと港内を一周した後、やや上りの中するすると桟橋に近づいて、元の位置にぴったりと着桟されたのは見事であった。

翌日、研究会の2日目として日立造船(株)堺工場へ移動して、これまた野本先生のご案内で、大阪市が復元建造している菱垣廻船を見学させて頂いた。当時はまだ、船底部分の外板を張り終えたところという状況であった。ご存知のように、野本先生はこの復元建造の監修委員を務めておられ、春一番Uを造船所の岸壁に係留して寝泊りし、ここからほぼ毎日建造現場に出て陣頭指揮をとっておられた。この船が単なる博物館展示用の張りぼてではなく、江戸時代の建造当時の手法そのままに、本物の"木の船"として復元されていることは誰の目にも明らかであった。誰ともなく「これを実際に帆走させたいですね。」という声が上がった。が、野本先生は「できればそうしたいんだがなー。どうも、このまま博物館入りしそうな気配なんだ。」と、昨日とはうって変わって寂しそうに仰った。野本先生は、なんとかこの船を海上帆走させたいと、すでにあちこち働き掛けておられたようであるが、孤軍奮闘の様相で、駄目かもしれないと思い始めておられたようであった。

当時、大阪市としては帆走するとも、しないとも言っていなかった。しかしながら、帆走するとなれば、150トンもの船をクレーンを使って下架、上架しなければならず、帆走海域までの曳航のためには曳船も必要である。ひょっとしたら破損するかもしれないし、終了後の化粧直しも必要であろう。その費用はどうするのか。また、こんな巨大な一枚帆の船を操帆操船できる人はいるのか、といった様々な問題があることは事実で、そのまま博物館入りさせたいと言われても無理からぬ話であった。しかしながら、建造に携わっている船匠の高齢化や、建造に要する費用を考えれば、このような帆船の復元建造の可能性は今後もうほとんどないであろう。そしてこの船が博物館に入ってしまうとその帆走の機会は失われ、我が国を代表する往年の帆船の性能を明らかにすることが永遠にできなくなってしまう、という野本先生の想いが我々を突き動かした。

セーリングヨット研究会として、なんとかあの船の海上帆走実現を目指して野本先生を応援しようと話が決まったのは、見学会からの帰りの電車の中であった。早速、「菱垣廻船を海へ!」のホームページを立ち上げるとともに、帆走のための費用の一部をカンパしようと、醵金を募った。また大阪市港湾局宛、請願書を送るとともに、我が国の3つの造船学会にも働きかけ、3学会の会長連名で大阪市長宛、帆走実施の要望書を提出頂いた。その間、野本先生は、海上帆走に必要な準備を着々とすすめられ、先生の教え子などの広い人脈をもとに、船体安全検査や所要機器調達などの問題を順々にクリアしていかれた。

一時期、週刊誌などにやや悲観的な記事が掲載されたこともあったが、舵誌のキャンペーン記事などのおかげもあって、当研究会の口座に150万円の醵金を頂いた。また、野本先生も個人的に企業やヨットクラブなどに働きかけて、ほぼ同額の醵金を集められた。さらに、日本財団からの600万円の補助金が決定して、ついに大阪市が1999年5月末に海上帆走実施計画を発表したのであった。(ただ、実際にかかった費用は、上記合計額の数倍だったとのことであり、大阪市がそれだけの覚悟をして実施を決定したことを申し添えておきたい。)

野本先生は早速帆走計画を立てられ、同船の船長として大阪市の練習帆船「あこがれ」の元船長である奥田忠道氏を推薦されるとともに、主要な乗員を「あこがれ」の熟練のトレーナー、トレーニーで固め、これにヨット界からのボランティアクルーを募るという方針を打出された。

一方、計測班はセーリングヨット研究会で担当することになったが、準備の都合上、まだ実現が不透明であった同年3月から取りかからざるを得なかった。ただし、計測に関する予算はゼロである。主体的には、九州大学の桜井研究室と筆者の研究室が担当したが、各々の研究室年間予算の、かなりの部分をこの準備につぎ込んだ。また、GPSを用いた船位計測に当ってはトリンブル・ジャパン社から機材の提供を受け、大阪大学の長谷川研究室、広島大学の小瀬研究室、日立造船の技術研究所が担当することになった。

菱垣廻船は「浪華丸」と名づけられ、1999年7月10日進水、岸壁にて一般公開するとともに各種準備を進め、20日から帆走練習と予備計測に入った。本計測は26日から8月1日までのわずか7日間、しかもこの間に台風の影響で出航できない日が3日あった。計測部隊は必死の思いで、この失敗の許されない計測に取り組んだ。もちろん野本先生は1日の休みもなく、帆走から計測までの全てがうまくいくよう、先頭に立って船上を飛びまわっておられた。

8月1日、最後の計測を終えて、何とか所定の性能を明らかにすることができたという安堵感と達成感の中で港へ向かっている時、浪華丸のデッキ上から夕日を眺める野本先生の、実にいい横顔を見ることができた。

今年7月、先生が亡くなられるちょうど2週間前の土曜日、その浪華丸の展示してある「なにわの海の時空館」において、第22回セーリングヨット研究会を開催させて頂いた。館内の浪華丸を見上げながら、本当にこんなでかい船を走らせたんだなーという感慨にひたるとともに、野本先生の情熱がなければ絶対にできなかったことだということを、あらためて感じた。浪華丸のデッキ上で、海上帆走時のお話をされる野本先生の横顔は、3年前に比べてやや柔和さが増したようであったが、あのごつい手はそのままであった。さらに研究会の討論で、納得のいくまで議論される頑固さも相変わらずであった。

実に多くの功績を残された野本先生であり、そしてまだまだ教えて頂きたいことが沢山あった野本先生であるが、先生のヨットに対する想いの、ほんの一部でも引き継いでいくことが、残された我々の使命であろうと思っている。残念で残念でならなかったが、今ようやくそう思うようになって、野本先生のご冥福をお祈りいたします、と少しだけ冷静に言えるようになった。

セーリングヨット研究会座長  増山 豊
  (金沢工業大学)


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