故野本謙作先生の思い出



事故の一報は、外洋内海、計測委員長の柏元さんからだった、現在病院に搬送中とのこと、愕然とし、もしやと思ったが、状況は絶望的だった。その後入手する情報はすべて、何故、どうして、という想いと、悲しみが深まっていくものだけだった。

先生は現役時代、船舶の運動に関する世界的権威だったと伺っているが、私達には、「春一番」のオーナー・スキッパー・デザイナーであり、セルフ・サフィシェント・セーラーのお手本のような人だった。まだ気象衛星が無い頃、定点観測船が日本の南方に位置していた。そこへの航海記を読むと、昔からすごい人だったことがわかる。ハル・ロスさんとの交流「ホーン岬への航海」や、御自身によるノルウェイ沿岸の航海など、実践的な示唆に富む記録であり、目を細め柔和なお顔で話をする、スピナヤーンの語り部でもあった。 ジャパン・グアムレースの悲劇後に起った裁判では、確固たる信念と見識を証人席で披露され、和解へ導かれた。先生以外の誰にできただろうか。

初回のニッポンチャレンジでは、技術部門の総指揮をとられ、該博で正確な知識をもとに、問題点を鋭く指摘され、わかりやすい言葉で説明して下さった。この時の技術チームは、その後、「セーリングヨット研究会」を立ち上げ、現在、継続発展中である。亡くなる2週間前に、大阪で研究会が開かれ、復元された菱垣廻船「浪華丸」(先生は復元工事と、帆走性能テストに貢献された)について楽しそうに解説され、また、「春一番」で日本沿岸をまわりながら、蒐集されていた各地の帆装船の資料が、近くまとまりそうだと報告されていた。

私達は、大きく太い支柱を失いました。今は、悲しみでいっぱいです。 先生は、わけへだてなく誰にでも、やさしかった。

御冥福を祈ります。

2002年8月3日   林 賢之輔