ヨットとの出会い

「三鷹水槽物語」高石敬史著作集 (日本科学者会議運輸研究機関分会2002.9発行)より

 私が初めてヨットに乗ったのは学生2年の夏休みであった。当時,大学で講師をしておられた野本謙作先生(現大阪大学教授)が,大学のヨット部のために設計した,独特の和船船型を基としたヨットを瀬戸内海の横島から西宮まで回航するのに誘われて乗った時である。横島は尾道から船で渡る小島であるが,先生のめがねにかなった腕利きの船大工が,初めてのヨットの製作に取り組んでいた。

 先生の率いる大学のヨット仲間5人と私が,大学の工作工場で手作りしたブロックや,大阪の川筋の町工場で亜鉛づけした金物,あるいは帆布屋であつらえたセールやシートなどの属具をひと揃え持参したが,鉄板を流線型に組み立てたセンターボードや舵も担いでいった。大阪港の天保山から船で尾道に直行した。

 横島では船大工の家の一室に泊まり,何日か艤装を手伝いながら,進水するのを待ち,早速瀬戸内海東半分を縦断する航海に出た。横島で一行に加わった先生の友人を合わせて合計8名の乗り組みである。ヨットは長さが約8m,コックピット,キャビン,前部のホールドの3つに分かれていたが,夜寝るときは,ホールドに2人が体を海老のように折り曲げて横たわり,キャビンのセンターボードの両側に2人づつ大根のように並んで身体をのばし,残りの2人がコックピットで操船するといった具合であった。昭和26年といえば,今のように内海の船の交通がラッシュの状態ではなく,昼も夜ものんびりとしたものであった。瀬戸内海の夏の朝凪・夕凪は有名だが,この時も強風を帆にはらんで大傾斜をして快走といったことは経験しなかったように思う。それよりも,8人乗りのどっしりとした船体を悠然と浮かべて,あっちの島,こちらの島と寄り道を楽しみながらの航海であった。

 印象に残っているのは,夜の航海で,近くや遠くに光を点滅させている無数の灯台や浮標を見ながら,海図と照合しながら,あの点滅はこの灯台だと教えてもらったこと,その昔,水軍の根拠地であった塩飽諸島の港町への上陸,渦潮のわき立つ備讃瀬戸の帆走などである。この快適な航海も,台風の接近のために避泊した玉野の港(造船所)で一休みとなり,私ひとりが皆と別れて汽車で帰阪したため,全コースを同行出来なかった。

 今から振り返ってみると,初めてのヨットでしかもクルージングを体験したため,陸の生活とは違ったペースに戸惑い,いろいろの失敗を重ねた。しかし,盲蛇におじずと言おうか,ヨット部員でないという気楽さからか,なんとなく無事に過ごしたようである。  失敗の第一は食事に関することである。夕食のおかずに鯨の肉を買ってこいと言われて,魚屋に出かけたが,瀬戸内海に育って,鯨肉の何たるかを知らぬ私は,肉の代わりに脂身のちりちりしたやつをどっさり買ってきてしまった。その夜はこれの酢味噌和えにみんなうんざりした。

 その次の失敗は出港時である。持参した工具を1つ残さず艇に積み込むよう指示され,工具のリストを渡されたのに,工具の重要性とそれぞれの独特の機能をわきまえてなかった私は,ドライバーのうちの最も大きいやつ一本を見落してしまった。艇が出港し,島をかなり離れた頃,8人もの重量で沈み気味であったのだろう,センターボード・ケースの上端から時々海水が盛り上がり艇内にあふれて来る。そこでケースの上に蓋をしようということになったのだが,木ビスを締めるドライバーがない。結局,ビスを金槌でたたき込んで間に合わせたが,締りがわるくて,水がもれるのは完全には止まらなかった。

 艇に乗って一番面食らったのは用便である。トイレなど付いていなかったので,用を足したくなると,メンスルとジブの間の帆影に行き,マストのステイにつかまって尻を大きく艇外に突き出す。まさに頭隠して尻隠さずの体勢ですませるのである。その間は気をつけて操船してくれるし,周りの同僚も知らぬ顔をしてよそを見ている。用が終ったら尻を少し下げれば海水が洗ってくれる。このようなことも体験するうちに何とも思はなくなった。しかし,島に立ち寄った時など,やはり真っ先に木陰や草の茂みに入って,動かぬ大地での用足しを心行くまでしたものであった。

 ヨットでは後から考えるとひやりとする出来事が起こる。この航海でも台風を避けて玉野の造船所に入港した際,マストを倒す作業を始めた。私が船尾のコックピットでマスト受けの台を立てている時,バウで一瞬早くジブステイを外したので,強風のため直径20センチ以上もある木製のマストが倒れかかってきた。私は後ろ向きにしゃがんだところであった。マストが私の後頭部に落ちかかるのを,キャビンの屋根の上にいた野本先生が仁王立ちになって満身の力で両腕にマストを抱き止めてくれた。マストは私の頸に軽く触れただけで止まった。それ以来,私はヨットのマストを倒す時は大声を上げて,皆の注意を集中するようにしている。

(「船研ヨット研究会誌」6号,1978.12)

<追悼>:本著作集(注)の編集も大詰めにさしかかった本年7月20日,野本謙作先生が新西宮ヨットハーバーにて事故死されたという悲報に接した。海の日に,愛艇「春一番U」を目の前にしながら,海中において突然死去されるとは,海と船を知り尽くした先生であるだけに,信じ難いことである。

船の研究やヨットの楽しみのきっかけを与えてくれた先生には,過去50年を通じて常に指導していただいた。最近では年3回ほど開かれる「セーリングヨット研究会」に出席して,先生の温顔に接しるのが楽しみであった。ヨットで全国津々浦々をまわり,明治から大正にいたるわが国の機帆船の建造技術や海運を調査された,先生晩年のライフワークの完成を目前にして生を終えられたことは,先生にとっても一大痛恨事であったと拝察する。

 「ヨット<春一番>のサーガ」は先生のヨット人生の航跡を記した著書である。この続編を読ませていただきたいものと,ひそかに願っていたが,それもかなわぬこととなった。半世紀にわたるご指導に感謝しつつ,先生のご冥福をお祈りする次第である。 (2002.7)

                              (注)「三鷹水槽物語」高石敬史著作集 日本科学者会議運輸研究機関分会2002.9発行