野本先生との思い出

師走の冷たい風が吹き始めた‘90年12月20日、日本にとって初めてのアメリカズカップ艇を蒲郡ベースキャンプから船積みし、名古屋港(積替え)経由サンディエゴに送り出しました。先生はひと月ほど前から図面を画いて手順を何度も確認して当日を迎えたのですが、小型の貨物船が到着するとすぐに乗り移って、打ち合わせもそこそこに自らラッシングをしたり船体の保護などを指示されました。又‘91年5月IACC世界選手権で日本艇がディスマストをした時です、会長艇でレースを見ていた我々は基地や本部に連絡して救助を求めていましたが、野本先生はラバーボートに飛び込むように乗り移って、折れたマストの切り離しに直接指示をされていました。文字通り陣頭指揮が先生の普段の姿勢でした。

野本先生とは‘88年1月にアメリカズカップ技術委員長になって頂いて以来ですが、机を並べて毎日仕事をお手伝いするようになったのは‘90年10月に蒲郡ベースキャンプに着任してからです。サンディエゴではアパートに何度か呼ばれて「僕は料理が上手なんだよ」と言って“春一番”でよく作るチャーハン?だとかご馳走になりました。

外人クルーはしばしば自艇の性能に自信を失って、ラウンドロビンの間にマスト位置を改造してくれ、等の無茶な要求をしてきましたが、設計に絶大な自信を持っていた先生は、諄諄と説いていかれました。外人も日本人も分け隔てなく愛情を注いでいましたが、別の意味で“日本人の設計による日本人の乗手”で勝負したかったようです。純粋に日本を愛した国際人であったと思います。

直接、感謝申し上げる機会を失いましたが、ご冥福をお祈り申し上げます。

2002-10-1 蒲谷勝治