野本先生追悼文(舵誌2002年10月号より)

先生は造船工学の大家でしたが、その中でも、セーリングヨットに精通した数少ない人でした。 本誌を通じて、古くから御名前は存知上げていました。お会いして直接お話を伺ったのは、やはり本誌上に、「春一番」の試乗レポートを書いた時でした。信子奥様も御一緒だったと思います。取材後、航洋帆船やダブルエンダーの話、愛知型打瀬船、和船構造、軽排水量対重排水量艇の話などを、まだ一部、サテンオイルが乾ききっていないキャビンで、伺いました。その後、私が設計した45ft艇の試乗レポートを書いて戴いたりしました。

87年にデザイナーとしては、夢のまた夢だったアメリカズ・カップへの挑戦が決まり、メインスポンサーであるヤマハ発動機から、デザインチーム参加のお話を頂きました。日本の造船界も積極的に応援してくれることになり、船型委員会が形成され、大学の先生を含む優秀な頭脳が集まりました。野本先生はノルウェイにある世界海事大学に赴任中でしたが、任期を終えてから参加され、船型委員会、デザインチーム、建造チーム、など、技術チーム全体の指揮にあたられました。当時、12メーター級が使われており、開発競争は既に究極的な段階でしたが、水槽試験や風洞試験が実施され、コンピューターによる流体計算CFDも試みました。これらの手法はいずれもデザイナーにとっては初体験で、お互いに言葉も通じないところもありましたが、先生は、解析結果について問題点を鋭く指摘されるとともに、丁寧に御指導下さいました。 巨大モノハル対カタマランという変則アメリカズカップの後、新しいクラスを制定することになり、現在のAC艇が生まれました。新しいルールのもとで、試験結果から独自のVPPを作り、最適な要素の組合せを探す作業が始まりました。セーリング・チームにはChris Dicksonも加わり天才的な腕を見せてくれましたが、デザイナーの力量不足のため、結果的に敗れました。しかしこの時、先生が選ばれた船体やリグの要素は的を得たものだったと思います。

先生の卒論は、「帆走の取扱に関する一つの試み」(1947年、1949年改)として、手書き論文が残されています。内容は小型帆装漁船の帆走性能予測で、船体とリグの形状は異なるものの、セーリング・ヨットのVPPと同様のものです。K.S.Davidsonによって本格的な研究が始まったのは1936年ですが、それから間もなく、敗戦後の食料難の時代に書かれたものからは、先生の帆走に対する情熱を感じることができます。先生から頂戴した論文のコピーは、私の宝物として、大切に保管してあります。 ACチャレンジの期間中、先生は御自身の信念を曲げることなく二度も更迭され、二度めの時に、私も殉職すると申し上げたら、君は若いからと慰留されましたが、戦意を喪失した記憶があります。これらを通じて、私的にも懇意にさせて戴き、手料理を御馳走になったり、コンサルタント契約をしていた某設計事務所への旅行など、今は、なつかしい思い出です。

先生は公的機関からの要請に、労を惜しまず協力されました。どれほど多くの機関に協力されていたのか存じませんが、私も参加したヨットに関するものでは、日本小型船舶検査機構による、多胴型小型帆船の安全基準に関する調査研究委員会、ジャパン・グアムレース事故後に開かれた、小型ヨット安全基準検討委員会、などがあり、委員長を務められ、いつも、にこやかに、毅然として、適正な結論へ導かれました。

とても大きな支柱を失った想いと、深い悲しみでいっぱいです。
心から御冥福を祈ります。

2002.08.13. 林 賢之輔