海で行き逢う人々

ヨットと船

クルージングしていると、いろんな所で、いろんな人たちにあいます。ほとんどみんな田舎の素朴な名もない人たちですが、実に魅力的です。そんな例をいくつか書いてありますけれども、たとえば、11ページに書いてある小さなエピソードは、九州の南の端に近い小さな漁港でのことです。

船を付けてしばらくすると、三年生ぐらいのガキ大将がやってきて、船首を止めてるロープを一生懸命引くから、
「あまり引くなよ、船が当たるじゃないか」
そうすると、ああこのおっちゃんは話できるなと思って、「これヨットですか」と私の船をみて聞いてきた。私は当然、「ああ、そうだよ」といいました。そしたら、その連中、なんかお互いにひそひそといいながら、しげしげと私の船を見てて、
「うそじゃ、これヨットじゃない、船じゃろう」
こういって叫びだした。私も一緒になって笑いながら、なるほどと思ったわけです。

ヨーロッパやニューイングランドなどには、今でも漁船やら荷船やら、その地方土着の小型船をヨットとして使って、愛着と誇りを持っている人たちがいます。そして西洋のヨットは、もともとそのようにして生まれて、現在の形に進化してきた。だから、彼らのヨットと船の間には、境界線も差別もない。日本の場合には、ヨットというと何かハイカラな舶来品で、普通の漁船などとは別のものだという感じがどこかにある。「これ、ヨットじゃない、船じゃ」という子供たちは、そこのところを子供の直感で突いたんだなあと、私は分かったわけです。そのような日本のヨットの特殊性といいますか、それはヨットの世間を狭くしていて、ヨットが社会の基本構造に日本ではなかなかとけ込めない。ヨーロッパやアメリカのヨットが、あれだけ社会の基本構造、民衆の間にとけ込んでいることと、これは決して無縁ではなかろうと、そのようにその時は感じたわけであります。

その次の、太刀魚がよく採れたところの漁場が荒廃した子供の話も、読んでみてください。なかなかのもので、あの子はその後どうなっただろうと折に触れて思い出します。

「兄さん、世界一周はやめとき」

最後の話は、これも印象的なんですが、豊後水道の離れ島で、もう日が暮れて遅い晩御飯を食べて、こちらは寝ようとしているところに、岸壁の方で、何か人が来たような感じがある。「兄さん、もう寝たかな。わたし、あんたが来たとき、ここで釣りしとったおばあちゃんよ」と声がして、おばあさんが出てきたのです。彼女は見ず知らずの私に言いたいことがあって、出てきたのです。こちらが聞いたわけではないんですが、まず身の上話が始まりました。小学校をでるとすぐにその島を出て、大阪にいってた。連れ合いも同じ島の出身で、造船所で働いてた。戦争に負けて失職して、二人で帰ってきて、漁と狭い畑で苦労して子供を育てた。昭和二十四年六月二十日、戦後まもなくの、まだ台風情報もテレビもない時代に、デラ台風というのが襲いました。これは非常に特別な台風で、きれいな澄み切った満月の夜に、いきなり南西からこの豊後水道を襲いました。大勢の人たちが死んで、今でも、あの人もデラ後家やというような言葉が、この豊後水道には残ってます。デラ台風で主人を亡くした後家さんたちのことを、デラ後家というのです。このおばあさんも、デラ後家の一人だったんですね。もう今は孫もでけて、安気なもんよというけども、四十四年、どんなに大変だったか、私もじいっとそれを想いながら黙って聞いてた。

これからが、彼女が私に言いたかったことなんですが、
「見たところそんなに若うもないのに、あんたはそんな大きなヨットで一人旅をしてのようじゃが、ひょっとしたらあんた、その船で世界一周をしようとしてるん違う。兄さん、なあ、世界一周はやめとき」

これは作り話じゃなくて、完全な実話です。こういう人たちがいるんですね。

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