沿岸ナビゲーションの三つ道具

沿岸ナビゲーションの三つ道具、それはコンパスとログとエコーサウンダー(測深儀)であります。この三つがあれば、GPSはなくてもレーダーがなくても、沿岸航海はできます。レーダーやGPSは、便利は便利ですが、GPSとレーダーだけで航海するのと、このコンパスとログとエコーサウンダーだけで航海するのと、二つを比較してみれば、この三つだけに頼った方がはるかに安全であります。それは間違いありません。この三つを使った上で、GPSやレーダーを補助に使えば、それはその分だけ、便利は便利です。

特に日本のヨットの場合、コンパスを積まないヨットはありませんけれど、ログとエコーサウンダーは比較的軽視されているような気がします。特にログのほうは、スピードメーターは比較的みなよく使ううんだけど、ナビゲーションの立場からすると、むしろ大事なのはスピードよりも航走距離の方だと思います。コンパスの方向と航走距離と、これを海図の上にプロットしておきますと、推測位置、いわゆるDR(Dead Reckoning)の位置が、次々に出てきます。それと海図にでている水深とを、エコーサウンダーで比較していきます。普通のエコーサウンダーは120メーターか150メーターぐらい測れるようになってますから、航海のかなりの部分までは、そのやり方でチェックができる。

たとえば、これはまあ自慢話になりますが、北海道を回ったときに、国境の納沙布岬と南の方の襟裳岬、どちらも霧でまかれてて、岬の姿を一度も目にすることなしに通ったんですけど、レーダーもGPSもはじめから積んでいませんで、コンパスとログと測深だけで、何の不安もなく、一人乗りで帆走だけで、霧の中を回っております。それは可能です。

疑い深さと注意深さ

ナビゲーションは一種のアートだと思います。アートとしてのナビゲーションには、ちょっと変な言い方かもしれないが、疑い深くなることが大事だと、私は考えております。どんなものも100パーセント信用できるものはない。コンパスで当たった角度も、水深も、100パーセント信用できるものはない。多分これはこうだろうけど、もしああだったらどうだろう、そんなことをいつも考えて、疑っていなくちゃいけない。そのことが大切だというわけです。

葉隠の話がそこに引いてあります。葉隠というと昔の話でご存じない方も多いと思いますが、これは九州の佐賀藩に伝わる日本の古典の一つです。戦争中には、武士道とは死ぬことと見つけたりとかいう、あの一句ばかりが一人歩きをしまして、アナクロもいいとこみたいに思われてるわけでありますが、一度読んでごらんになるとわかるように、非常におもしろい。日本の広い意味の文芸作品の中でも傑作の一つだろうと思います。

その中の一つに、「誤り一度もなきもの危なく候」という言葉があります。これは失敗したことがなくて、したがって疑うことがない侍がどんなに危ないかということを、実践の経験からいったものです。これを書いた人は戦国時代を生き残った年老いた侍で、泰平の世になってますますサラリーマン化してゆく侍たちを目にしながら、自分の考えを書いた文章が元になっているのですが、その人の目から見ると、「誤り一度もなきもの危なく候」、こういうことになる。

GPSのデータなども、もしああだったらこうだけど、もしこうだったらこうだということを、いつも疑い深く見ているのなら有益無害だと思うのですけど、悪いことに、GPSという道具はこういう疑い深さと馴染まない顔をしてるんですね。それが私、一番怖い気がいたします。

霧の夜だとか、そんな何が出てきてもおかしくないような状況が、海の上ではあります。そういうときのナビゲーションを語るときに、疑い深さと並んで大切なのは、注意深さであります。一瞬浮かび上がる山影は、すぐにコンパスで方位を取らなくちゃいけない。音、漂流物、匂い、五感にかかる全ての兆候を見落としてはいけない。それらのことがらは、コンパスやログやエコーサウンダーが与えるナビゲーションの情報を、あるときは補い、あるときは修正し、またあるときは危ないぞといって、警鐘を打ち鳴らすものであります。ナビゲーションのアートとはそういうものだろうと、私は考えております。その点、GPSやレーダーだけに頼るナビゲーションと比較してみますと、その本質において大きな違いがあります。私はGPSが悪いとはいいません。だがGPSだけに頼ることによって、そのような何千年にもわたって作り上げてきたナビゲーションのアートを、簡単に忘れ去ることの危険を強調したい、こういうことであります。

ずいぶん偉そうな話をしておりますけど、この場所では私のヨットの乗り方の話をしろといわれますので、覚悟を決めていわせて頂ければ、このような話になって参ります。

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