8 マリンジェット

図15 SEA-DOO
カナダ・ボンバーディア社製、1967年発売
 
1967年、カナダのボンバーディア社がシ−・ドゥ−という水上スクーターを発売しました(図−15)。私たちも一隻購入してテストしましたが、間もなく販売を取りやめ、製品を回収しました。1500隻売ったものが、エンジンの水入りでクレーム多発、事業をあきらめたのです。しかし私はこの種の商品がどうしても欲しいと思いました。

6年後、もっとコンパクトで運動性の良い水上スクーターを試作して(図−16)、商品化に進もうとしました。しかしちょうどその頃川崎重工のジェットスキーが発表され、試乗会のおこなわれた砂浜で女性を倒したちょっとした事件が新聞に大きく報道され、国内での販売を諦めました。このために社長から時期が悪いと止められ、涙を飲んでこのプロジェクトを中止しました。

図16 YX-800
2.4mL x 0.9mB、60kg、1人、
UA-JET、1973年ヤマハで試作したが中止

1984年、堀内研究室ができまして、その折水上スクーターをテーマの一つに据えました。実際にはボートのテストが担当の小林君という人が熱心だったので、そこで自由に活動ができるようお金、機材、技術で応援する形で花を咲かせようとしました。

当時の狙いは、カートップできるぐらい軽量、ロ−コストで、しかも乗って充分面白いものを作ろうとして、いろいろなレイアウトを次々と試みました。その過程でやってはいけないことがほとんど全部判る、という貴重な成果が得られたように思います。

図17 マリンジェット MJ-500
32馬力。1986年発売
 
その中からものになりそうなものを、米国の販売網に持ち込んで、試乗会を開き、商品化についての相談を重ねました。

その後、米国側の検討と市場調査の結果、大きく重くても良いからシ−・ドゥ−のような形の2人が座れるタイプを優先させて欲しい、と言ってきました。技術的には一番易しかったので、それならすぐにもできる、とかなり運動性の良いものをまとめました。それまで2年にわたって勉強してきたことが生きて、1年でPL的にもほとんど完全な商品(MJ500,図−17)をマリンジェットと言う名で売り出すことができました。

このモデルは水上スクーターの先駆けとして、大好評で迎えられ、あっと言う間に米国での売り上げが拡大して、立ち乗りのジェットスキーを追い抜き、多くの他の会社も商品を出して、アメリカのマリンスポーツの姿を変えてしまいました。

ボンバ−ディア社も、はじめに作ったのはわが社である、と言ってシ−・ドゥ−を改めて作り始めましたが、彼等が諦めてから20年も経っていたのですから、やっぱりこの商品を作ったのはヤマハだと思っています。

志を抱いてから25年を経て、世界中では恐らく1000億円の立派な商品に育ったとは思いますが、私たちが当初意図した軽量、ロ−コストはまだ先の話です、もう少し粘って見たいと思っています。

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9 無人ヘリ

図18 RCASS
1.8mH x 1.4mB x 1.4mD、2.6mRotor x 2(1,000RPM)、
20馬力/6,000RPM、80kg(Dry Wt.)、100kg(Gross Wt.)。
フリーフライトの写真。テニスコートの広さに止まれない。1985年
 

1983年、東大航空学科の中口先生から耳寄りの話がありました。無人ヘリの開発プロジェクトが行きづまっている、ヤマハでやる気はないかと言う話でした。

ヤマハは当時、本田とのオ−トバイの販売競争、世に言うHY戦争に破れて、技術者の温存のために補助金付きの開発プロジェクトを貰うのがとても有り難い時期だったので、喜んでお受けしました。

委員会の中口先生、東先生は航空の先輩、後輩であり、委員会の母体である農林水産航空協会はその数年前まで私の叔父が会長を務めていた団体で、気心は知れていましたので話はスムースに進みました。

ただ作りかけの機体を引き取って見ましたが、とても飛べる機体ではないと判断、設計からやり直して2年頑張りました。委員会の設計は米海軍の艦載無人ヘリ、「ダッシュ」を原型とする2重反転ローター型で、人間の手によって飛ばせる機体ではありません(図−18)。自動安定装置の使用を前提としていたのですが、それがなかなかうまくいかないのです。失敗しても機体が壊れないようテストの補助装置を作って何とか纏めようとしましたが、フリ−フライトに移ると間もなく落ちます。落ちると3ヶ月、半年飛べない、これでは何時まで掛かるか判らないと判断して、全く別の機体を作ることを思い立ちました。

図19 R-50 儀
3.6mL(ローター含む) x 0.7mB x 1.1mH。
11馬力/9,000RPM、100cc水冷、35kg(Dry Wt.)、20kg(Payload)、
メインローター3.0mφ/620RPM、テールローター0.5mφ/3,200RPM。
初飛行風景、1986年6月
 
まず模型ヘリのトップメーカーであるヒロボ−と手を組んで、手で飛ばせる機体を作り順次自動化を進めるという考えです。ヒロボ−との信頼関係が4ヶ月の打ち合わせの間に確立できたので、共同開発の契約書をまとめ、ヤマハ側はエンジンの専門家、久富技師と私の二人が夜なべで全体計画、エンジン、パワートレイン、機体、降着装置等を設計しました。ヒロボ−ではメインローター、テールローターと組み立て、それに飛ばす方を引き受けて貰いました。契約から8月後に初飛行(図−19)、さらに1年半経ってモニタ−販売に漕ぎ着けました。1987年12月のことでした。


図20 R-50 況(プロダクション)
3.6mL(ローター含む) x 0.7mB x 1.1mH、
12馬力水冷100cc、44kg(Dry Wt.)、23kg(Payload)、
メインローター3.07mφ、飛行時間30分、
1987年モニター販売開始、1989年正規販売開始
 
図21 R-MAX
3.63mL(ローター含む) x 0.7mB x 1.06mH、
21馬力水冷250cc水平対向、58kg(運用荷重)30kg(Payload)、
メインローター3.1mφ、テールローター0.58mφ、
飛行時間60分、1997年発売
 
それから10年、今や稼働機数は1000機を数えて、有人ヘリによる農薬散布を置き換えつつあり、農業近代化の最先端として期待されています(図ー20)。

昨年は10年振りで新型が出ました(図−21)。ペイロードが30kgで農業用に特化した使いやすい機体で、さらに姿勢が崩れても手をスティックから放すと3軸ジャイロが姿勢を立て直してくれ、その位置に静止させるようになっています。もう長いこと私の手を離れていますが、この機体も私が描いた機体と主要寸法や基本構造がほぼ同じです。そのことがどんなに開発の効率を良くしたことか、それが自慢の一つです。

最近は苗床や田植えが要らず、収量の多い米の直蒔き(じかまき)が方々で試みられていますのでいずれ主流になるでしょう、また遠からずGPSによる自動散布ができるようになるだろうとこれからが楽しみです。


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10 ARVの夢

岡村製作所の山名先生のもとで兄弟子だった大森幸衛さん(図−4右から2人目)は岡村の後、防衛庁技術本部の第3研究所(飛行機、ミサイル担当部門)に移られ、その後ここの所長を経て、技術本部の本部長を務められました。

退官されてからヤマハで顧問をお願いして、堀内研究室、ヘリの開発部門、人力飛行機のメンバーを中心に教えて頂きました。

1986年8月、米国のオシコシで行われた航空ショ−を大森さんと一緒に見に行きました。これは千数百機の自作機の集まりですが、見物の飛行機が1万2千機も全米から集まって、同じ飛行場に駐機しています。風で動かないように杭を打って飛行機を縛り付け、翼の下にテントを張って、1週間ショ−を楽しみます。20万人の見物人を集める飛行機気違いの一大ペ−ジエントで、まあその集まりを見るだけでたまげました。

新しい飛行機の場合、自由な曲面を使ったFRPの流麗な機体が抵抗を減らして、最近の軽飛行機の高性能につながっていることが良く判りました。さらに、これらの飛行機を遊びで作る別世界の連中を見て、驚くとともに心底羨ましくなりました。そして大森さんと軽飛行機が作りたくなったというわけです。

ちょうどその頃、ヤマハのある部門で、90馬力程度の航空エンジンの開発活動が始まったので、それと歩調を合わせて飛行機の計画を始めました。実際の設計は堀内研究室の楠君、彼はその時すでにウルトラライト、ハンググライダーの設計の第一人者で、指導は大森さん、私はコ−ディネ−タ−を務めました。

図22 ARV
5.9mL x 6.86mB x 500kg、AR=8.0、
90馬力、L/Dmax=22.7、最高速度328km/h、
巡航速度300km/h(75% Power)、失速速度99km/h、
航続距離4,800km(1人、170km/h)、1993年終焉
 
3人で、やるからには世界記録を狙おうと設計にかかりました。FRPの翼の剛性を頼みに前進翼を採用し、洗練された胴体の形状などが実って、風洞実験ではグライダーに近いL/D=22、7を達成しました。世界記録の種目には離陸重量500kg未満というクラスがあるのですが、性能計算の結果によればそのクラスで1000kmを飛ぶ平均時速がそれまでの299kmに対して328km,また航続距離でもそれまでの3640kmに対して4800kmに達するなど、二つの世界記録を塗り替える見通しが立ちました(図−22)。

ところが、そろそろ実機を作ることを考え始めた87年12月、楠君が富士山麓でハンググライダーに乗っていて墜落、死んでしまいました。続いてエンジンの方もキャブレター、ダイナモなどの補機類のメーカーがPLを恐れて作ってくれないので航空エンジンの開発を断念する旨伝えてきたので、この計画は残念ながらストップしました。すごく良い飛行機ができると思っていただけにまことに残念でした。

このプロジェクトはいろんな人の力が必要ですし、よほどタイミングに恵まれないと進めることができません、したがって私にはこの先も実現の見込みが無いだろうと諦めています。

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11 おわりに

これでプロジェクトのご紹介を終らせて頂きますが、こういった仕事をしてきて、創造的な開発をする上で、極めて重要というか今の若い人に足りないのではないかと思ったことが二つほどあります。それは、乗り物である以上「軽く」作ること、それから「夢を絵に描ける」力を養う必要があるということです。

軽く作ることは当たり前のようですが、永年大勢の若い人を見ていて、余程のことがあって骨身にしみないことには軽く作ることの重大さがピンと来ないし、また実行できないという傾向を感じるのです。

軽く作るためには、はじめに絵を描いた時に見込みを立て、さらに設計の全行程に亘って管理、調整に気を配り続ける執念が要ります。だから設計が終らないと重量計算ができないなどと言うようでは見込みがありません。設計が終ってから軽くできるものなどほとんど無いからです。

次に絵が描ける、と言うことですが、初めに絵とか計画図が無いことには、強度、性能、重量、総ての計算ができないのです。ところが、初めの絵が大過の無いものなら、順次直してものになりますが、外れていたら何時までたってもまとまるわけがありません。

従って絵が描けると言うことは、強度、性能、構造等に関する理論や経験が血となり肉となって身体に蓄積されていて、その直感に支えられてバランスの取れた絵が一気に描けるとか、あるいは略算を交えてよく考えて何度も描き直した結果、身体の蓄積に照らしてこれはいける、と感じる絵に到達できる能力があるということで、その絵のレベルが事の成否を決めてしまう、と言って過言ではないと思います。

「軽く作る」ためにも、「夢を絵に描ける」ようになるにも、一番役立つのは自分で考えたものを夢中になって自分で設計し、作って見ることだと思います。

後にお話の出て来るソーラー&人力ボートレースも、私はそんな気持ちでお手伝いをやっているわけでして、面白いものがどんどん作れる若い人が育つことが、私のもう一つの夢ということでご理解いただければ幸いです。

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