ボートデザイナーとしての軌跡

ボートデザイナーとしての軌跡

堀内浩太郎氏            
(元ヤマハ発動機)         
1998年3月7日            
第13回セーリングヨット研究会にて講演

目次

1  はじめに
2  生い立ち
3  就職
4  横浜ヨットに戻って
5  ヤマハへ
6  ハイフレックス船型とストライプ船型
7  パスポートとF−22
8  マリンジェット
9  無人ヘリ
10 ARVの夢
11 おわりに

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1 はじめに

私、今年の秋には72歳になります。これまでに数多くの面白い乗り物を作る機会がありましたし、またそれをこれからも続けようと思っています。今日はこういう機会を頂きましたので、お話の前半は私の心に残る開発について駆け足で振り返って見たいと思います。また後半はこれからやりたい夢の一つをご紹介して、皆様からご教示を頂きたいと思いますので、よろしくお願い致します。

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2 生い立ち

図 1 クレッパーのファルトボート
クレッパーは実験航海記の大西洋横断艇のメーカー。
上記艇は3人乗りで、三角帽子が筆者。
2本マスト3枚帆付き
 

生まれは東京です、本郷の西片町、東大のすぐそばで幼時を過ごしました。父は理論化学の学者で、私が6歳の時ヨーロッパに留学し、1935年、私が10歳の時、クレッパ−のファルトボートを持って帰ってきました。(図−1)

間もなく北大に赴任、家族は札幌に引っ越しましたが、その後2600年型という5mのディンギーを岡本造船所から購入しました。札幌の中心から10km程のところに茨戸という石狩川の三日月湖があります。そこで日曜ごとファルトボ−トかヨットに乗せられまして、何しろスパルタ教育なものですからつらい思いをしました。兄弟9人、これはどうしたらボ−ティングが嫌いになるかを教わったようなものでした。(図−2)

冬になって、スキーを始めると、これは夢中になりました。隣の病院の息子、太黒君と毎日数時間も、暗くなるまで北大の構内を駆け回っていたから、初めての冬の終わりにはクラスで一番速くなっていました。このことは後年、雪上の乗り物を開発するに当たって助けになりました。

図 2 皇紀2600年型ディンギー
5m。岡本造船製
 
父に勧められて模型飛行機を始めたら、すっかりはまってしまいました。間もなくやり過ぎて成績が下がって家で禁止され、やむなく隣の太黒君の家に工場を移して、やがてそこでも成績が下がって禁止されて、数えると7ヶ所逃げ回って隠れて作っていました。

札幌の西、三角山のふもとに1/20勾配程の広い牧草地がありました。ゴム紐でグライダーを打ち出すと、地面に平行に3〜400mも滑空します、それを見上げながら牧草の中を走るのが楽しかったのです。

何しろ飛行機は家でご法度ですから、行く先を言わずに家を出て、札幌の南の学校から機体を持って西の方の山に行く、弁当が無いから死ぬ程腹が減って、又機体を学校へ戻して晩家に帰るのですが、それが何とも仕合わせな気分だったのを覚えています。

こうした飛行機少年の日々がその後も続いているようですし、この頃身体で覚えた軽くて壊れない構造、とか空気の扱いなどの感覚が後々生きているようにも思います。

中学5年からは、さすがに飛行機を止めて受験に専念して、旧制二高、東大ではボートばかり漕いでいました。

東大に入ったのは終戦の2年後で、航空活動は禁止され、目標だった航空学科は応用数学科になって飛行機の設計は勉強できませんでした。しかし卒論で林先生について、結局は飛行機の軽構造力学を教わりまして、これは面白かったです。

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3 就職

就職は卒論の相棒と二人富士重へ行くことになっていたのに、突然一人減らされることになって私が落ちました。慌ててボートの先輩千葉四郎さんにお願いして、その先輩の会社、横浜ヨットに就職したわけです。これで仕事が車からボートに変わってしまいました。

主としてお役所の船の設計をしながら横浜ヨットに1年半居て、社長の命令で岡村製作所に出向しました。岡村製作所は日本飛行機の岡村町の分工場が戦後独立したもので、進駐軍の家具を作って羽振りが良く、トルクコンバーターと飛行機の開発を始めていました。私はここに1年半お世話になりました。

図 3 N-52
コンチネンタル65馬力付き並列復座軽飛行機。
6.0mL x 8.6mB x 500kg(全重量)自重は300kg。
主翼面積12m2。最大速度180km/h、失速速度76km/h。
1953年製作
 
そこには戦争中海軍航空廠の設計主任として「彗星」「銀河」などの海軍機を設計された山名正夫先生がおられまして、航空機製造が丁度解禁になったものですから、戦後最初の飛行機の設計を初めておられました。そのチームに入れて頂いたわけです。

その飛行機、N−52(図−3)は木村秀政先生が基本設計をされた日本大学の機体で、私は主翼以外全機の強度計算、脚、尾翼の設計をやらせて頂きました。またN−52のできた後も、東大の並列複座ソアラ−、LBS−1(図−4)の設計に参加しまして、山名先生の基本計画のお手伝いをしたほか、V尾翼の操縦系統の設計をさせて頂きました。

図 4 LBS-1
 
私は体重が80kgと重かったので、2機とも試験飛行に乗せて貰えませんでした。離陸時の上昇角が小さくなって、木に引っ掛かるから危ないということでした。当時、60kgを超える人は少なかったようで、私は軽飛行機乗りとしては不適格だったわけです。 岡村で山名先生に付いて飛行機やグライダーの計画の手順を教わったのは実に得難い経験でした。名人芸的な実験や膨大な資料を駆使して、グライダーの姿が浮かび上がってくる、その経過を目の当りにして感動したものです。また一つ計算を間違えれば飛行機が落ちるという厳しい環境で働いて、初めて強度計算を自信をもって進められるようになりました。短い期間でしたが、この時に教わったことや自信がその後ずっと私を支えてくれたことに深く感謝しています。

吉原社長は岡村を自動車メーカーに育てたいと考えておられて、私もこれには興味がありましたが、山名先生以下の飛行機屋の先輩はそんな簡単なものではないと反対、結局皆さん会社を出ることになり、あおりを喰って私も横浜ヨットに戻ったようなわけです。

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