野本先生の沿岸帆船研究について


2003. 7.12

増山 豊

1. 「模造西洋形」船と「伸子帆」の起源と普及
 明治に入っても弁才型の船が作りつづけられているが、その中にあって、明治15年から18年の間に、"長崎高島炭鉱"と"三池炭鉱−口之津"の石炭を運搬するために約100隻の2檣縦帆装備の「模造西洋形」船(30〜80GT:運礦丸シリーズ、付図1の@)が建造された。これは工部省長崎工作分局といった行政の指導で、長崎の戸町村あたりで建造されたようである。
この船の特徴は「直立に近い船首とバトックラインフロー的に切り上げた船尾が横長の船尾板、いわゆる「天保艫」にまとめられている。そして2本のマストには紛うことなき「伸子帆」が装備されている。」しかしながらこの船が完全に西洋形(スバント作り)として作られたのか、"あいの子船"(フレームを後で入れる)として作られたのかは特定できない。何故「模造西洋形」と呼ばれたのか??

● 野本先生はこの造船所を特定し、船型や構造から西洋形船だったのか、あいの子船だったのかを明らかにするために現地へ何回か足を運んでおられるが、造船所の特定までには至らなかったようである。あいの子船であれば、その後のあいの子船のルーツになると考えられたのではないだろうか。
● 我が国の明治以降の帆船に大流行した伸子帆の起源が、これらの船であることは間違いないであろうことを、明らかにされた。(付図2の図13)

2. 明治28年〜同32年におこった日本形船と西洋形船の登録数の激変
 付図1のAに示すように、明治28年から同32年に日本形船と西洋形船の登録数が激変している。これは明治29年に新しい船舶検査法が制定され、それまで日本形船とされていたものが西洋形船に繰入れられたり、明らかに西洋形船であるにもかかわらず登録を免れていたものが登録されたためである。これらの船の多くはあいの子船と見られるが、日本形とも西洋形とも判断できる船型にあいの子船の秘密が?

● 野本先生はこの謎を解くために、船の戸籍簿とも言える「船舶原簿」から追跡調査されている。結果はほぼ出たよう?
● 「船舶原簿」の収集には国土交通省海事局に依頼され、船舶番号20000番まで集められた。これだけまとまった「船舶原簿」は、今日本で、野本先生宅にしかない。
● 「船舶原簿」には全長、総トン数などの諸元の他、帆装の種類なども記入されている。

3. "あいの子船"の船型と構造
 あいの子船は、弁才型(日本形)の帆船が明治以降一足飛びに西洋形に変化するのではなく、その過程において出現した我が国独自の船である。これは次のような3つの世代に大別できる。

第1世代のあいの子船(明治20年〜30年)
弁才型の船体、1本マストの大帆はそのままで、船首のジブと船尾のスパンカー (いずれも縦帆で逆風帆走に使う)を加える。

第2世代(明治30年〜昭和20年)
  初期のものは弁才型の船体に2本マストとバウスプリットをつけ、スクーナーの帆装。時代が進むにつれて水密甲板を増設、肋骨を入れて横強度を強化、舵取付構造の洋式化などが加わるが、船体は全体として和船の形式が支配的。この時代になると70総トン未満が多い。(付図2の図12)

第3世代(明治末〜大正、一部は昭和まで)
  多数の肋骨を持ち、外観は一見洋型と見まがうものも多い。しかし重要なことは船体構造の基本が和船式であることで、まず幅の広い外板を曲げ付けて船型を構成し、それに沿わせて後から肋骨を入れている。比較的大型で150総トン前後が多いようである。帆装は当然、洋式でスクーナーが圧倒的に多い。

 大正から昭和初期に入ってもあいの子船、特に第2世代に分類される形式は小型船を中心に依然大きな勢力を持っていた。しかし、一方では明治末から大正期にかけて、西洋形船の構造法(スバント造り)が漸く全国に浸透してきた跡を見ることができる。・・・
 これだけ洋式構造の技術が普及してくると、和船との建造価格差は以前ほどでなくなり、また積トンで150トンを超える木造船では、スバント造りの強固な構造に大きなメリットがある。第3世代のあいの子船のように多数の肋骨を入れるのならば、和船式建造の長所はないとも言えるであろう。こうして大正中期の頃には積トン100トン未満の船は第2世代のあいの子船、150トン以上は洋型スバント造りの帆船という状況が一般的になったものと見られる。

● "あいの子船"は全国の造船所で作られたが、その船型や構造はほとんど明らかになっていない。野本先生はこれを船型学的に明らかにしようとしておられたようである。このために、上記の「船舶原簿」から採取された諸元をExcelの表にまとめられ、各種のグラフを作成して比較しておられる。その数約600隻。その一部を付図3に示す。
● また、上記1の伸子帆のルーツと帆装の変遷を追いかけるために、長崎地方の船を調べられた数は約1100隻に上る。すごいのはこれら全てを1隻づつ「船舶原簿」からあたって、数年毎の変化まで調べられている点である。
● 野本先生は全国の港を春一番Uでまわられて、古い造船所をたずねて昔の図面などがないか丹念に調べられた。その結果、伊勢の市川造船(現在はもうない)などに素晴らしい図面が残っていることを発見された。
◎ 残念ながら、野本先生がこのように調査され、これに関する文章を残されているのは添付の「伸子帆の起源と普及について」(2002年7月17日22時終了)だけのようである。先般、奥様にお伺いしたところ、野本先生は下書きを書かずにワープロを打っておられたとのことであった。いよいよこれからまとめを書き下ろしていこう、という矢先の事故であったものといえ、誠に残念でならない。残された膨大な資料と、ノートメモ、そしてこれらのExcelファイルから、どこまで野本先生のお考えに迫ることができるであろうか。

以上